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連載

【SPO社員インタビュー】シネマート六本木元支配人・村野 第3回 SPO・シネマート六本木編①


第1回 出会い・シネマライズ編
第2回 キネカ大森編

―そうだったんですね......
村野:そうすると、もともと映画ファンではない、アジア映画しか知らない私がいても、役に立たないというのもあるじゃないですか。
そんな時にSPOが映画館を作るらしいと聞いて。

―SPOはいつからの入社だったんですか?
村野:シネマート六本木のオープンが2006年3月だったので、その準備段階からですね。

当時、東京の片隅の大森から見ていて、SPOはすごく勢いがあるように思いました。こっちはこっちで特集上映をしたりとか、なんとか"アジア映画専門館"として踏ん張っていたわけですが......

そこをドカン! と、大逆転される出来事が2005年にありまして......

―そういう見方をされていたんですね(笑)
村野: 2004年にイ・ビョンホン主演の『純愛中毒』という韓国映画が大ヒットするんですよ、SPOが手がけた。
その後2005年になって『韓流シネマ・フェスティバル』という映画祭をやる訳なんですね。
当時、私がキネカ大森でやれたのは旧作を集めた特集。
ところが、SPOはなんと、全部新作でやると(笑)
そして毎日噂話を聞く訳なんですよ。「劇場溢れているらしいよ」とか「上映期間が延びた」とか「アンコール上映やってるよ」とか。「韓フェス」と「SPO」の話題で持ちきりだったんですよ。

  

  

  




―当時の勢いはすごかったですからね
村野:その時は「キー! SPOめ!」と思っていたんですよ(笑) 正直、面白くなかった(笑)
完全にジェラシーです。でもそのSPOが映画館をつくる、しかもアジア映画専門の劇場だと聞いて「あれ?」と思って(笑) 「がっつりアジア映画を上映する劇場で働きたい!『韓フェス』やりたい!」と思ったんですね。
キネカ大森にはものすごく愛着もあったし、お客さんとも一緒に旅行に行くくらい仲良くなったりもしていましたが、ちょうどアジア映画を上映しなくなっていたので、「ここで辞めても裏切り行為ではないはず」と気持ちを納得させて、SPOに入社しました。
そしてシネマート六本木のオープンが2006年の3月だったんですけど、これがまた、
大変でしたね。

―オープンまでの準備期間に何かあったんですか?
村野:多分、人生で一番大変だったんじゃないかな?(笑)
会社自体が、映画館を始めて作つくるわけで。
私も、映画館で働いていましたといっても、アルバイトなので。だから本当に手探りで。その上、不測の事態が起きていくわけなんですよ。
例えば、スクリーンを張るタイミングでトラブルがあってしばらく工事ができなかったり。どんどん工程が遅れていったんです。

ただ、こけら落としの『韓流シネマ・フェスティバル2006』は決まっているので、数日間で全作品のテスト試写をしないといけない。当時はまだ35ミリフィルムの時代でしたから、映写がフィルムをつないだら、夜中にテスト試写をする。でもヘトヘトだから眠っちゃう。そうするともう1回観ないといけない。なので、1作品ごとに担当を決めて2人体制にしたり。それでも、チョ・インソンの『ラブ・インポッシブル』なんて、3回はテストした気がします。どんなに韓流スターがかっこよくても、アジア映画愛があっても、もう無理です~って感じでした(笑)



―その時は村野さん含め何人くらいの人手だったんですか?
村野:現場は4人でした。今思い出してもぞっとしますね(笑)よりによって4人とも、シネコンと同じようなチケットシステムや、バーコードで読み込むPOSレジの経験もなく。もうすべてが初めてなわけで......
その他にも、アルバイトスタッフの面接をしたり、物販の交渉や発注など、オープンまでの全てをやらなければいけないんですよ。

―ハードな話ですね(笑)
村野:朦朧としながらやっていましたね。家から劇場までが遠かったので帰れないことが多くて、ホテル代も家賃並みに発生するので、結局はトランクを持ってきて落ち着くまではずっと泊まっていましたね......。そんな時に母親が入院したりで、キャパオーバーでした。

もちろん、作品のブッキングとか、宣伝とか、大きな部分は本社がすべて準備してくれていたわけで、私たちだけが大変だったわけではないのですが......

―最初の年は忙しかったのですね
村野:2006年のオープン時は本当にバタバタで、お客様には本当にご迷惑をおかけしましたね、映写事故も多かったし......。だからどちらかというと「さあ!オープンだ!」という感覚よりは、ふと振り返るといつの間にかオープンしていて1ヶ月くらい本当に記憶が朦朧としている感じですね。
皆様に迷惑をかけてしまっていたなという気持ちの方が、残念ながら強い感じです。

毎日のようにお客様からお叱りをうけて、頭を下げて。
スタッフにも、迷惑かけてばっかりで。
グッズもフードカウンターも、オープン時は規模が大きかったので、本社から毎日手伝いに来てくれて、商品の登録をしたり、役員までが毎日ホットドッグやポテトフライを作ってくれたり。とにかく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

でも恐らく皆さん期待していてくれていたと思うんですよ。
地下1階から3階まで4スクリーン全てでアジア映画を上映するなんて、画期的だったのではないかと思います。

  

  

  


―その後はどの位から落ち着き始めたのですか?
村野:意識が現実に戻ってきたのは『韓流シネマ・フェスティバル2006』が終わってからですかね? お祭りがバーと終わった後に普通の映画館になる訳じゃないですか。新作を上映して、お客様が入るものもあれば入らないものもあるという感じで、だんだん現実感が出てきましたね。「どうしたらお客様に来てもらえるのだろう?」とかリアルに考える事ができる様になったのは、オープンから1ヶ月過ぎてからだったように思います。

―通常営業になったわけですね?
村野:アルバイトさん含め劇場スタッフ全員が我に帰った感じですかね(笑)

(第4回につづく。次回はシネマート六本木編②!

  

  

ちなみに2階はイベントスペースでした!

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