ピエル・パオロ・パゾリーニ監督 傑作選


 

1922年、イタリア・ボローニャで、ファシスト軍人の父と元教師の母の長男として生まれる。父親の転勤で北イタリアの各地を転々とする幼少時代を過ごし、内向的な性格に育った彼は、大酒飲みで暴力を振るう父を激しく憎み、感受性豊かで優しい母を慕うようになる。

16歳までは海軍士官を目指すものの、国語が得意だった彼はシェイクスピアやランボーを読み、詩人をめざすようになる。大戦中、母親の故郷フリウリ地方のカザルサに疎開し、22歳で処女詩集「カザルサ詩集」を自費出版。前近代的で純朴な農村文化との出会いは、やがて彼の芸術的想像の大きな基盤となっていく。一方、終戦前に弟グイードがパルチザンの内紛により20歳で死亡。死と隣り合わせの生活が、彼の性格形成に大きな影響を及ぼす。

カザルサで教師となった彼は、共産党に入党し、地域のリーダーとして活躍するものの、政敵から「彼のホモセクシュアルが未成年を堕落させている」と密告され、共産党から除名される。1949年、27歳で母親とともにローマへ出奔する。

 ローマで再び教師となった彼は、極貧の中で詩作・小説執筆を続ける。スラムの住人たちと友人づきあいを続ける一方、アルベルト・モラヴィアら多くの文壇人とも交流が始まり、1955年、33歳で小説「生命ある若者」を発表。スラムに住む少年たちを描き、作家としての名声を得る(しかし当局からは「猥雑」と摘発される)。

 ローマで再び教師となった彼は、極貧の中で詩作・小説執筆を続ける。スラムの住人たちと友人づきあいを続ける一方、アルベルト・モラヴィアら多くの文壇人とも交流が始まり、1955年、33歳で小説「生命ある若者」を発表。スラムに住む少年たちを描き、作家としての名声を得る(しかし当局からは「猥雑」と摘発される)。

 一方、イタリア映画界も彼に注目しだし、シナリオ作家としても活躍し始める。1956年、34歳の彼に「ローマのスラム、娼婦たちのことならパゾリーニが一番だ」と言ってフェデリコ・フェリーニ監督が『カビリアの夜』の共同脚本を依頼したのは有名なエピソードである。

 やがて、学生時代から映画製作に興味を持っていたパゾリーニは、フェリーニ監督の『甘い生活』にも参加し、自身で映画を監督することを決意。1960年、長編第1作『アッカトーネ』を監督する。以後、詩作や言語論、記号論、映画論の傍ら、次々と映画監督作を発表していく。訴訟問題など常にスキャンダルを生み続けた作品たちは、やがて多くの論議と高い評価を得て、その名声は国際的に広がっていく。(詳しくは作品紹介ページへ)。なお、『アッカトーネ』の助監督を務め、パゾリーニ原案の『殺し』で映画監督デビューを果たしたベルナルド・ベルトルッチ(『ラストタンゴ・イン・パリ』『ラスト・エンペラー』)は、監督デビュー前から「ロベルト・ロッセリーニとピエル・パオロ・パゾリーニ以外のイタリア人監督は認めない」と公言している。

 一方、政治活動家として激化する労働運動や学生運動と歩調を合わせてきたパゾリーニは、それらが瓦解した後の後期資本主義社会に対し、痛烈な批判を始める。彼にとっては、愛する「農民文化」の消滅にも繋がる危機的状況だった。そして、現代社会と対極的な喜びを描く「生の三部作」を発表。さらに新たな地平に立つべく『ソドムの市』を発表する。

 1975年11月、『ソドムの市』を撮り終えた直後、ローマ郊外の海岸で他殺体で発見される。事件は、『ソドムの市』に出演していたエキストラの17歳の少年にパゾリーニが男色行為を強要したためと断定されたが、いまだに政治的陰謀説なども囁かれており、真相は不明である。




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