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映画はファーストシーンで勝負! 中国映画『世界』より「ばんそうこう持ってない?」

人が映画を観るとき、「あ、この映画おもしろい」と感じるのは、どんなタイミングだろう。

私は時々、ファーストシーンで、この映画はきっとおもしろいという確信のような直感が走ることがある。

そのうちの1作が、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の『世界』である。



「誰か、絆創膏持ってない?」という女性の声から、映画は始まる。

薄暗く長い廊下の一端に女性ダンサーが現れ、その言葉を繰り返しながら、こちらに向かって進んでくる。この時、彼女の顔は暗くてよく見えない。ようやく顔に光が当たったかと思うと、彼女は楽屋の中をのぞき込み、他の女性ダンサーたちに絆創膏を求める。ダンサーたちは衣装をまとい、鏡の前で身支度をしている。しかし絆創膏を持っている人はいなく、女性はさらに廊下を進み、トランプをしている男たちの横を通り、他の楽屋を訪ね回る。廊下には衣装が並んでいたり、支配人や出演者たちの声でがやがやしている。それぞれの楽屋には、出演者たちがそれぞれの準備をしている。お化粧をしている人、髪をセットする人、サボっている人......。この一連の流れが、観客に空間の奥行を感じさせ、人物の奥行、「世界」の奥行を匂わせるのだ。

なかなか絆創膏が手に入らない彼女は、声もだんだん萎えてきて、とある楽屋に入り、椅子に座り込んでしまう。その楽屋では男たちがトランプをし、女たちがおしゃべりをしているが、誰も彼女に答えてくれない。女性はとどめを刺すように大きな声で「誰か、絆創膏!」と叫び、そこでようやく貸してくれる人が現れる。やっと絆創膏を借り、足に貼ろうとしているところで、一人のダンサーに助けを求められる。衣装のチャックが閉まらないらしい。女性は苦戦し、そこへ支配人がやってきて、開幕の時間だとダンサーたちを追い立てる。ここで開演前の緊張感と慌ただしさがピークになり、観客はつい、「間に合わない、早く」と思いながらも、それがここにいる人たちの日常なのだと知る。そして出演者はみな楽屋を出ていき、一人楽屋に残った女性は、やっと絆創膏を貼ることができる。

このファーストシーンは、要するに人物の生活する環境、仕事、仲間などを紹介しているのである。しかし、女性は絆創膏を探し回っていて、カメラはそれを追っているのだから、とても自然に感じられるのだ。つまり効果がありながらも狙っているとは感じさせない、情報は十分ながらもわざとらしさを感じさせない絶妙さがある。一人の女性の行動を追うことで集中させ、カメラワークや照明など映像のおもしろさを感じさせると同時に、実は情報提供もきちんとしている。そして、このワンシーンの中では小さな起承転結が起こり、物語が存在する。きっとこの映画はおもしろいに違いない、いや、すでにおもしろいと、そこで思うのである。

登場人物たちの「世界」が、ここから描かれるのだ。何を世界というのか、世界とはどういうことなのかが、これからだんだんわかってくる。

サスペンスなどでよくある、いわゆる○○事件の伏線とはまた違う、作者が描きたいものを描いていくそのはじまりを、しっとりと肌になじませてくれるのだ。

映画館を出たあと、私たちはしばらく結末に心が揺れることが多いが、家に帰って少し落ち着いたら、ファーストシーンを思い出してみるのも楽しい。

それがこの映画にどのような影響を与えるのか。

例えば小学校の国語の授業で、昔話や童話などの結末を自分なりに変えてみようといった課題を出されたことがあった。しかし、お話の始まりを変えてみたら、どうなるだろう。または、始まりを違う語り方に変えたら、どうなるだろう。

ある意味ラストを変えるよりも、ドキドキするものである。

ファーストシーンの力というのは、物事の始まりが人に与える予感や心のつかみ方のように、その映像言語によって発揮され、私たちが普段意識するよりもっと大きく、もっと可能性に満ちているのだ。

筆者:于 然(いう らん)

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